昭和45年12月20日 夜の御理解



 報徳祭が済んだ後に、善導寺の親先生が、本当に、ここは、上から下まで、人が揃うて結構と言うてから、ああやって言うて下さったんですけれども。本当に、おかげを頂いて、もう何ち言うかね、手が揃うておると言うか、それぞれのご用の分担といった様なものが、まぁそう言えば、そういうおかげを頂いておるなとこう思います。信心は何処までも、心を中心にするものです。例えば、手足がなえるとか、動かないとか。
 本当に矢張り心のどこかがその様に、不自由になる元を持っておるからです。ほんならここの教会の運営、その自体に於いてもそう。何処にか間違いがあれば、何処にか欠けて来るものがあるに違いはない。いわゆるこれで完璧と言う事はない人間だから。けれども、合楽での生き方、お互いの信心の進め方と言うものが。やはり健全な一途を辿っておるから、やはりその手になり足になる人達の働きも。
 また健全な働きが出きるんだと私は信ずる。ただぽかっと揃うておると言うだけではない。そのやはり中心になる信心が、ある意味に於いて足ろうておる。または足ろうておる事を、願いとしてのお互いが信心にまたは意欲に燃えておるから、神様がこの様なまたは、あのようなおかげを下さるのだと思うですね。
   どうぞ。